姫路蒲田村創業 おつかい菓子 甘音屋おつかい菓子 甘音屋

新着情報

新型コロナウイルスの備え

コロナウイルスに悩まされて2か月が過ぎた。

 

「まさか自分たちに」「まさか姫路に」

そんな軽い気持ちをよそに目の前に迫る「脅威」と

そのスピードに恐怖を感じた。

お客様、従業員、売上、資金繰り、この2か月は

その「脅威」に対する「備え」に追われた。

 

しかし、まだ「脅威」への恐怖は消えない。

手洗い、消毒、マスク、体調管理は、

当然今まで以上に。体温測定、室内換気、

ソーシャルディスタンスなど今までにはない。

あっても「ここまで?」という事も多々ある。

 

「備え」という事が、いかに大切か?思い知らせた

2か月であった。

 

しかし悪いことだけでもない。

時間の過ごし方も変わった。

 

仕事が終わると自宅に直行。

「脅威」との「やりとり」に疲れた私に「お帰り」

と長男が出迎えてくれる。何よりの癒しである。

 

ここのところ陽が沈む前に帰宅するため、

明るい間に長男と野球を楽しむことも。

有意義な時間だ。

 

空振りに笑いがこぼれ、

ヒットに驚き、アウトにつくため息。

その間に互いに今日の「一日」を報告しあう。

 

「売上どうなん?」「まあまあかな~」

「今日は昼間は走ったんか?」「うんちょっとだけ」

「どこ走るんや?」「近所~」

 

普段と大して変わらない会話だが、

どこか明るく聞こえる。

忙しさに感けて、そんな「かすかな変化」

を拾えていなかった自分に気付く。

とても大切な時間である。

 

そんな長男にボールを投げていると、ふと思い出す。

 

毎日、毎日、ブロック塀を背に、

陽が沈んでも続けていた兄とのキャッチボールを。

外枠がうっすらとぼけていて、カラー?白黒?

あいまいな色合いで記憶が再生される。

そう。「走馬灯のように」という言葉がしっくりくる。

 

真っ暗になってもキャッチボールは続いた。

「ストライク!」

「ちがう!今のはボールや!」

「いやストライク!」

息子とのやり取りとは違いけんか腰である。

時間を忘れて兄と競いあった。

 

なかなか帰ってこない兄と私を、やや強めの語気で

呼びに来る母。

 

「もうご飯よ、いい加減にしなさい!」その一言で

電源がオフになる。

同時に夕食という新たな「競い」が生まれる。

毎日のことだった。

 

そんな私たちを制止するように

「靴の土は玄関外で落としなさい!」

「ちゃんと靴をそろえて入りなさい!」

「手を洗いなさい!」

「ちゃんと石鹸をつけて!」

と強めの語気は続く。

 

席につき、ようやく辿り着いたご馳走を前に

「いただきます」と間をとられる。

今度こそは・・・と手を伸ばすと「直箸はだめよ!」

とまたストップがかかる。

 

「取箸でお皿にとって!」

「食べながらしゃべらない!」

と叱られてばかりの食卓であった。

そんな「昭和の食卓」も今は懐かしい。

 

新型コロナウイルスは海外と比べ感染者が少なく、

まだ亡くなられた方が少ないと言われている日本

だが、諸説様々な意見がある。

 

しかし「几帳面すぎる」と言われる日本人は

「脅威」に対する「備え」があるのかもしれない。

 

くれぐれもこんな時期に、危機感に対する

「過信」ととらえないで欲しい。

しかし、日本人はそういった幼い頃から受けた教育が

少なからず「予防」として

役に立っていることも肯定もできないが、

否定もできない。

 

人と人との間(会話だけでなく、距離も)の取り方、

大声を出さないつつましさ、

日本人らしい正しい食事のとり方などなど。

 

普段から行っている習慣が、海外から見れば

滑稽かもしれないが間違いなく

「予防」に繋がっていると私は思う。

 

昨今、中国で「直箸」を控える動きがあるという。

箸は遠い昔、中国から伝わったと言われているが、

「取箸」という文化が、中国で生まれようとしている。

とても興味深い話である。

 

話が随分と反れたが、今日も長男との

キャッチボールを楽しみにしている。

 

そして食事の時には「直箸」のことを話そうと思う。

 

いつの日か息子も思い出してくれるだろうか。

「令和の食卓」を「走馬灯」のように。